ララランドと隕石

平野啓一郎『マチネの終わりに』に巻かれた「結婚した人は人生最愛の人ですか?」という帯を見るたび書店でイライラしている。

 

理由を自分の中に探っていくと、大抵の人は誰かにフラれたことがあり、その後に別の人と結婚するものだし、目の前の相手が最愛の人かどうかそう簡単に決められるものじゃないでしょ、という無粋さへの苛立ちがある。そして、仮に最愛の人ではないかも知れない、最初は消極的な選択肢として選び取った人だったとして、そういう人間の選択には、馬鹿にできない切実さがあると思っている。

 

これが何の話かというと昨日見たララランドの感想です。お互いがお互いの存在を胸に隠しながら、別の分岐を生きること。すでに自分と馴染んだものを再び選び直すこと。ララランドの美点は、そういう人間の営みを最後の数分で美しく描いたところで、劇場を出ても「ありえたかもしれない」無数の分岐と共に歩き続ける観客にエールを送る。

 

感想をつらつら書いてて感じるのは、この手のヒューマニズムは、

①観客ではなく製作者目線の
②批評的審美眼のある
③固有名詞に目ざとい


等のありがたがられる感想から一番遠いところにある素朴なもので、人に言うのは恥ずかしいなということ。もうほどほどにするけど、個人的には、この作品の挙げ出すとキリがない断点ーーこれほんとにジャズか?2人の目指してる成功は虚構じゃない?黒人の使われ方がtypicalすぎない?みたいなのはほとんど逆手に取ってしまえる、ずるくてうまい作りだと思います。いいもん観た〜。

 

そのあとは祇園四条の石屋で恋人のアクセサリーを一緒に選んだ。宝石店ではなく石屋としてのアイデンティティがあるところ、二階に洒落たカフェがあるところ、店員が本を片手に石の成因を教えてくれるところ等々、美点の多い店でした。あれこれ悩んだ結果、宝石ではなく隕石に決まり、2800万年前の隕石でできた首飾りを手から提げて次の予定へ急ぐことに。通行人に「隕石ぶつけちゃってすみません」を二人でひそひそ言い合って、笑いを嚙み殺しながら四条通りを走り抜けた。